道心いずこ

勤め人。不惑を超え、妻子あり、老父母あり。 思うことあり、実家の菩提寺とは異なる宗派で、昨年得度を受ける。 仕事から少しずつフェードアウトして、僧籍を視野に入れつつ、第二の人生を考慮中。 思春期から、視覚で「見える」ことはなくても、違う感覚で「わかる」人。 霊感と霊性、宗教と世俗について、思うことをつづります。

釈尊が悟ったとき

釈尊は成道後、なぜ、釈尊は世俗に帰らなかったのだろう。

王に戻り、転輪聖王にならなかったのだろう。

僧のままでいたのだろう。

 

きっと、世俗が求める善と、宗教が求める善は、また異なるものだ。

 

ではなぜ、寺院は、世俗が求める善を祈願するのだろう。

メシのタネと言えば身も蓋もないが、法を説くきっかけ作りか。

 

若い頃、千年くらい前に生きた僧に傾倒し、その菩提寺を幾たびか訪ねた。

その寺を訪ねるたび、精神を病むような災厄に、見舞われた。

私は、その寺を訪ねることを恐れた。

しかし、今思うと、その災難は、自ら招いたものが、現出したにすぎなかった。

そして、その災難を通して、宗教上の学びについて、非常に大きなものがあった。

災厄ではなく、乗り越えねばならない艱難であり、今だからわかる、仏の慈悲である。

 

幸せとは、利他とは、何だろうか。