釈尊が悟ったとき
王に戻り、転輪聖王にならなかったのだろう。
僧のままでいたのだろう。
きっと、世俗が求める善と、宗教が求める善は、また異なるものだ。
ではなぜ、寺院は、世俗が求める善を祈願するのだろう。
メシのタネと言えば身も蓋もないが、法を説くきっかけ作りか。
若い頃、千年くらい前に生きた僧に傾倒し、その菩提寺を幾たびか訪ねた。
その寺を訪ねるたび、精神を病むような災厄に、見舞われた。
私は、その寺を訪ねることを恐れた。
しかし、今思うと、その災難は、自ら招いたものが、現出したにすぎなかった。
そして、その災難を通して、宗教上の学びについて、非常に大きなものがあった。
災厄ではなく、乗り越えねばならない艱難であり、今だからわかる、仏の慈悲である。
幸せとは、利他とは、何だろうか。